『劇場版転スラ』に続き、まだ自分を納得させきれていなかったので、もう少し考えてみた。
[この下『すずめの戸締まり』ネタバレ有り]
前回「『すずめの戸締まり』の草太は閉じ師として未熟だったのではないか」説を唱えた私だが、草太に限らず、あの話は全員”未熟”であったと考える。
閉じ師としての知識が足りない草太、少女独特の傲慢さを持つすずめ、神として幼すぎるダイジン、母親の代わりにはなれなかった環、師匠として草太を育てられなかった祖父など。
なので、「未熟でなかった場合」本来こうあるべきだった正しい道順での『すずめの戸締まり』を考えてみた。
もしも草太がちゃんとした閉じ師の知識を持っていて、ダイジンも役目を投げ出す事をしなかったら。
そう、草太&ダイジン(&すずめ)のほのぼの要石移動旅(^^)が見れたのではないか?
それでいいじゃん!
それで良かったんじゃないの⁉
こうすると、各地の後ろ戸をダイジンに案内してもらいながら、すずめが被災地を巡り成長をしながら、ダイジンはすずめにしっかり甘えられて、草太も教員試験の時は東京に寄って、その間にすずめとダイジンでもう一つの要石であるサダイジンに会いに行って、ダイジンも心新たに要石に戻って、草太とすずめもダイジンの事を想いながらめでたしめでたしになれたんじゃないの?これが正史なんじゃないの?
いや、分かっています。
映画として、ピンチや盛り上がりはとても大事ですし、何よりボーイミーツガール感が足りませんよね。
新海誠監督の映画は初めて観ましたが、ボーイミーツガールをとても大切にしている監督だという事は噂で聞いております。
未熟であるゆえに起こる出来事を越えて、成長していくボーイミーツガールが切なさも含んで好きなんでしょう?『すずめの戸締まり』以外観た事ないから知らんけど。
だが思う。
果たしてこのボーイミーツガールは本当に必要だったのか。
ボーイミーツガールで世界を救うと言えば思いつくのは、『天空の城ラピュタ』な訳だが、パズーはシータに出会う事で、父の夢も叶えられた。
そしてシータにパズーが必要だったかと言うと、絶対に必要だった。彼がいなければ囚われの身に戻っただけだった。
少年と少女が出会い、数々の障害を乗り越え、色々な人とも出会い、心を通わせ成長していく。
ボーイミーツガールのお手本はこれだと思う。
一方、『すずめの戸締まり』では、すずめは草太がいたから生きたいという気持ちを持てたのだろう。
草太はすずめがいたから人に戻れた。
だから必要。と思いきや、そもそもすずめがいなくて、ちゃんと閉じ師としての知識を持っていたら、イスにも要石にもなっていなくないか?
分かっている。
少女と青年の恋物語にイチャモンをつけているという事は。
だってダイジンが……っ‼(´;ω;`)
批判したいわけではない。
嗜好に合わなかっただけなんだ。
とりあえず、「ハッピーエンド」の定義は人それぞれである事を改めて学んだわけで。
この作品が「スーパーハッピーエンド」であるというならば、私はこれから自作の事を「ウルトラハイパーハッピーエンド」だと称する事にする。
おわり!
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